「ドラえもん」のジャイアンは乱暴者だと思うかもしれないが、実は、原作では、彼が友達以外に暴力を振るうシーンは、たったの一度しか無い。
(劇場版を除く)
それは、のび太が迷子になった先で不良に絡まれた時。
のび太を助けるために、ジャイアンがスネ夫と共に戦おうとする画面がある。
(35巻「ドラえもんに休日を」)
子供は親から与えられたものは、何であっても愛情表現として受け取る、と言われている。
すなわち、親から暴力を与えられたら、暴力が愛情表現となり、
おもちゃを与えられたら、物を与えることが子供にとっての愛情表現となる。
例えばドラえもんでは。
スネ夫の両親はスネ夫におもちゃを買ってあげる。
ジャイアンの両親はジャイアンをよく殴る。
さて、ドラえもんに、下記のような話があった。
のび太がもしもボックスを使い、「もしも僕が転校する事になったら」という世界を作作る。
そして、転校することになったのび太を心配してみんながやってきた。
スネ夫は、今までのび太にいじわるしたことを泣きながら謝罪し、友情の証にと自分のおもちゃをすべてのび太に渡そうとする。
ジャイアンは、泣きながら自分を思う存分殴って欲しいと頼みこむ。
(31巻「ためしにさようなら」)
結局、彼らは親から与えられた愛情の証がそれだったため、それ以外に表現方法がわからなかったのかもしれない。
(ちなみに、ジャイアンは、さほど仲良くない出来杉君には暴力をふるったことがない)
結局、親からもらったものを愛情だと思ってしまっている以上、自分の子供に愛情を与えるときにも、ついそれを繰り返してしまう。
親から暴力を受けていたなら、自分の子にも暴力を。
やりたくないと思っていても、これは自動実行されてしまうのだ。
また、暴力ほど明確でなくても、やってる自分も気が付かないような小さな虐待もある。
「親がよく嫌がらせをして、その反応を見て親が喜んでいた」などなど。
じゃあ、どうやって、それを自分の子供やその後の世代に連鎖しないようにできるのか。
実はこれは、「親と同じことは絶対しないでおこう!」と思っても辞められないのだ。
むしろ余計にそれが進んでしまったりする。
虐待を受けた子供は、「自分が悪かったからだ」と思いやすい。
(いじめも同じ)
そうなると、自分の子供に対しても、「この子が◯◯なことをしたからだ」と自己正当化してしまう。
その連鎖を辞めるには、
「親は、あれしか愛情表現の方法を知らなかったのだ。
あれは私に対しての愛情表現だったが、
私はあれをされて良い気持ちではなかった。
だから、私は、別の表現方法を選ぼう」
と、一度受け止めて(許して)から、自分の中で消化すること。
もちろん、愛情表現ではなく本当の虐待だったかもしれない。
その場合も、「私はそれをされて嫌だった。あれ程のことをされるいわれはなかった。私は親を憎む。私は別の表現方法を選ぼう」と消化する。
そうすると、強く意識しなくても、自分がやりたい表現方法で子供を愛することができるようになってくる。
※
ちなみに、ドラえもんの設定は漫画のみの話で、アニメ版には上記と違う設定の話も出てくるかもしれない(笑)