言われてみればそうだよね

不労所得で7年ほどセミリタイアして子育てしてましたが、2018年から復帰して投資講座を始めました。

脳は、嫌なことはすぐに忘れる

「痛い目を見たら教訓になる」
よく言われますが、実際にはそうならないことが多いです。

では、
「痛い目を見た時」
「おいしい思いをした時」
どちらのほうが印象に残るのでしょうか?

多くの人は、痛い目を見たほうが記憶に残ると思いがちですが、
実際には、おいしい思いをしたときのほうが強烈に印象に残る のだそうです。

痛い目を見たときは「嫌な記憶」なので、脳はすぐ忘れようとします。
そのため、本来なら教訓にすべき体験なのに、記憶に残りづらいのです。

一方で、おいしい思いをしたときは強烈に記憶に刻まれ、
たとえそれが極めてレアな出来事でも、「またあれを味わいたい」と追い求めてしまう のです。

ギャンブルで大勝ちした人がハマってしまう理由がまさにこれです。

ギャンブルではほとんど負けて痛い目を見ているにも関わらず、
その記憶はすぐに薄れ、
たまに訪れる「大勝ち」だけが強烈に残ってしまう。
そして、その極レアの勝ちを追い求めてしまうわけです。

本来なら、大勝ちしたときこそ忘れるべきなのですが、
人間の脳はそうできていません。

であれば、 痛い目を見たときの記録をきちんと残し、定期的に見直して教訓にするしかない のです。



 

今の成功を受け入れていないと、潜在意識は自分を失敗に導く

「自分の好きなこと」=「収入を得られること」
とは限らないのです。

好きな仕事を一生懸命やっても全くうまく行かないこともあれば、
逆に、そんなに気合を入れてやってたつもりはないのに、
お客さんから喜ばれて大成功することもあります。

その場合、つい、 「これは片手間でやっただけだから、私の本当の実力じゃないんだ」 と卑下しちゃうことがあります。

人間の心は、思っていることを正当化するために動きます。

なので、自分のことを卑下していると、
潜在的にミスを繰り返したりして、失敗に終わり、
「ほら、やっぱりダメだった」
としてしまうのです。

今の成功を受け入れていないと、
潜在意識は自分を失敗に導いてしまいます。

努力と成功の質は一致しない

「努力しないで成功するわけがない」

という偏見があるから、
「いや、苦労なんてしなかったよ」と言っても、

(この人はこう言っているけど、きっと辛かったに違いない)

と思われてしまいます。


実際には、

「後から見れば苦労に見られるかもしれないけど、
 やってた時はそんなのいちいち考えなかった」

ということが多いのです。


ただ、日本では「苦労しないで成功した」はタブー扱いされます。

「苦労しなかったのが本当なら、成し遂げたことは大したことじゃなかったんだ」

と思われがちです。


かつて、小惑星探査機「はやぶさ」が探査を成し遂げた時、

  • トラブル続きだった「はやぶさ1」は絶賛された。
  • トラブルもなく無事任務をこなした「はやぶさ2」は、メディアでほとんど取り上げられなかった。

実際には、はやぶさ2」こそが大成功を成し遂げているのに、です。


ちなみに「はやぶさ1」も、メディアでは

「襲いくる次々の困難を乗り越えた」

と報じられましたが、
現場の人たちからすれば、想定の範囲内のトラブルで、
解決したときも「やっぱりね」ぐらいのことだったそうです。


関係のない他人は、
「大成功」に対して必ず「苦労」という付属品をくっつけてきます。

しかし、この思い込みはほとんどの人が持っているため、
自分自身が楽しみながら行動して成功したとしても、
心の奥でこう思ってしまうことがあります。

「苦労していない成功は間違っている」

これは、潜在意識にこっそり刷り込まれた“日本的な呪い”なのかもしれません。

楽しみながらでも結果は出せる

私たちは子どもの頃から、

「欲しいもの(結果)を得るためには、
 辛い思いをしなければならない

と、いつの間にか思い込まされています。

だから、
何かを達成するための行動は「苦労(または苦行)」である
と勝手に思い込んでしまいます。


たとえば、

  • テストで高得点を取るための勉強は「苦労」
  • 筋肉を鍛えるためのトレーニングも「苦労」

自分ではそう思ってなくても、周りから

「苦労されたんですね」
「頑張ってこの結果を得たんですね」

などと言われ続けると、いつの間にか、

「私は苦労してこの結果を得たんだ」

と思い込んでしまうこともあります。


本当は、結果を得るために必要なのはただの「行動」なのに、
そこに「苦労」というラベルをわざわざ貼っているだけなんです。

だから、目標に向かって進んでいるときに、
その行動を自分が楽しんでいる場合、

「こんなことやっても良い結果は出ないんじゃないか?」
「もっと辛いことをしなきゃいけないんじゃないの?」

と思って、わざわざ辛くなるやり方を選んだり、
楽しんでいたはずなのに眉間にシワを寄せてやってしまうこともあります。

しかし、行動の中身さえ間違っていなければ、
多くの場合、望んでいる結果は出るものです。

むしろ、ゴールに至るまでの過程は、
楽しんだ方がずっと気持ちが良いと思います。

「覚悟する人」と「あきらめる人」の決定的な違い

「覚悟する」と「あきらめる」は違うものなんだけど、 どうもごっちゃに使ってる人が多い気がします。

例えば、初めてセミナーを開こうかという時、

「お客さんがたとえ一人しか来なくてもいい」

というのが「覚悟する」

「お客さんが一人しか来なくても仕方がない」

というのが「あきらめる」


「覚悟する」というのは、
「そうならないように全力を尽くすが、たとえそうなったとしても受け入れる」

というもの。

覚悟はその経験を次に活かせるが、 「あきらめる」だと、次に何も産まない。


その「覚悟」というのは、どれだけの、名人・達人になっても必要です。

ある綱渡り名人の話では、

「貼られたロープの上をスイスイと歩くためには、
 落ちることを覚悟して覚悟して、
 それをし尽くして、もう覚悟さえ必要としなくなった時、
 初めてスイスイと渡れるようになる」


また、「覚悟」は、「真剣さ」も生み出します。

「真剣さ」と、「熱心さ(頑張り)」も、また違うものです。
「真剣にする」は、回数に関係なく、いまやろうとしていることに全神経を集中して行うこと。

「熱心にする(頑張る)」は、気持ちだけが先走り、粗削りで、集中力を欠いています。


例えば、子どもが料理で包丁を扱うときに、「怪我をしないように」と掛ける言葉は、

「真剣にやりなさい」

「熱心にやりなさい(頑張りなさい)」と言う人は少ないと思います。

真剣にやってる人は、

「自分の行動が何を引き起こすか」

を覚悟して動きますが、 ただ熱心にやってるだけの人は、 その覚悟がないから結果を出せないのです。


谷間にかかった丸太の一本橋は、 真剣にやれば渡ることができますが、
熱心なだけでは渡り切ることはできないのです。

昔、プロ野球三冠王を何度も取った落合博満選手は、 打撃練習では、何時間も「熱心に練習する」のではなく、

たった一球だけの練習でした。
投手に、自分の体に向かって投げさせ、それを打ち返す、ということをしたそうです。

これこそは、熱心と言うより、
真剣な練習だったのでしょう。

SNSで、自称投資家のフォローを外す理由

投資においては、最初に「いつ買うか」(エントリー)のタイミングよりも、
実は「いつ利確・損切を行うか」のタイミングの方が重要です。

でも、それを妨げる要素が「その銘柄に対する予備知識」
つまり、その銘柄を買った理由です。

例えば、Aという銘柄があったとして、
ネットのインフルエンサーがこう言っていたとしましょう。

「Aは今1000円ですけど、将来は3000円になりますよ!」

この言葉を信じてAを買った場合、
あなたのトレードスタイルが崩れてしまう危険性があります。


例えば、1000円で買ったAが900円に下がったとします。
普段ならここで損切りしていたかもしれません。

でも、インフルエンサー「3000円になりますよ!」という言葉が頭に残っていて、
なかなか損切りができない。

株価が下がっても、 「彼が言ってるんだし、そのうち上がるだろう」 と思って持ち続けてしまうのです。

そして、当のインフルエンサーはと言うと、
もうAの銘柄のことは忘れて、別の銘柄をオススメしていたりします。


インフルエンサーだけでなく、テレビや雑誌で仕入れた情報でも同じです。

こういうふうに、自分ではなく他者主導でエントリーした銘柄は、
利確や損切りのタイミングも自分の判断でできなくなってしまいます。


だからこそ、「自分主導」の投資をするために、まずやるべきことは──

SNSで、自称投資家やインフルエンサーのフォローをすべて削除することです。

+5000万円 → -1000万円 になった男の話

最近、ある知り合いが、とある急騰銘柄に投資をしていて、
利確前の含み益で5000万円ぐらい行ってた。

だが、銘柄自体がヤバめな上に、
信用取引までしていたので、注意したほうが良い、と何度も伝えた。

しかし彼は「大丈夫 大丈夫!」と耳を貸さなかった。
「もし暴落しても10年持つつもりだから」と言っていた。
信用取引だからそんな事できないのに・・

久しぶりに連絡取ったら、その銘柄は大暴落し、
+5000万円だった含み益は、全て無くなったうえ、-1000万円の損失になったらしい。

彼は、「なぜ利確しなかったんだ・・」と頭を抱えていた。


今現在の投資が順調な人に、どれだけ、
「何か起きたときのために注意しておいた方が良い」
と言っても伝わらない。

なぜなら、投資が順調なときは万能感で溢れているからだ。

「きちんと考えてるから大丈夫!大丈夫!」
「どうせ無くしても良いお金だから」
という答えが返ってくるばかり。

でも、本当に大暴落が起きたとき、パニックになって下手に動き、
または動くべきときに動かず、
大きな、とても大きな被害を被ることになってしまう。

そうなってから茫然自失になって市場から撤退していった人を、
何人も見てきた。


その人達は、○○ショックみたいなのが起きる前までは、
万能感に溢れていて、他人からの警告には耳を貸さない。
または聞いても他人事のような受け取り方をするなど、
とても軽い気持ちで聞いている。

地震の被害を知らない外国人に、
どれだけ言葉で伝えても伝わらないのと似ている。


いざその事態になったときにパニックにならないためには「覚悟」が必要だ。
覚悟とは、例えば自身の避難訓練のようなもの。

○○が起きたときにはこうする、と心のなかで、
リアルなシミュレーションを何度も何度も繰り返して、
日頃から訓練しておくことが必要だ。

訓練は、何度やってもしすぎることはない。
本当にその事態が起きると、天地がひっくり返るほどの衝撃があなたを襲うからだ。


まあ、とは言え、めちゃくちゃ上手くいっているときに、
最悪の事態に備えるということが出来る人がどれほどいるのか。

逆に言えば、それが出来る人は、何十年経ってもその世界で生きていくことが出来ている。

他人が勧めた銘柄を買わないほうが良い理由

株式の短中期投資を行う際、
「◯◯(インフルエンサー)のおすすめ銘柄!」といったものを
購入するのは避けたほうが良いです。

その銘柄が上がるかどうかは別として、
余計な感情が乗ってしまうからです。


例えば、その銘柄の株価が下がり、
あらかじめ決めていた損切り条件に達したとします。

通常ならそこで損切りできるはずですが、
有名人のおすすめという情報が頭をよぎり、

「○○さんが勧めていたし、
 他の人も買い増ししてる人も多い。
 まだ損切りするべきではない!」

といった余計な考えが決断を妨げてしまいます。

実際、それを勧めていた当の本人は、
とっくに損切りして逃げていることも良くあります(笑)


銘柄に「愛着」を持つこともNG

長く持てば持つほど、その銘柄に対して
感情的になりやすくなるので注意が必要です。

例えば、10%上昇したら利確すると決めていた場合、
銘柄を保有して2週間ほどならすんなり利確できるかもしれません。

しかし、3ヶ月ほど持っていた銘柄では、
「こんなに長く持ってきたのに、この程度で利確するのはもったいない」
といった感情が行動の邪魔をしてしまいます。


どの銘柄で増やしても、
また保有期間が短くても長くても、
1万円の価値は同じです。

だから、短期投資をするなら、
連続ストップ安の可能性がほとんど無い銘柄で、
最も先の読みやすい値動きをしている銘柄を、
限定的な期間だけ持つ気持ちで売買し、
あらかじめ決めていた利確・損切り金額になったら、
すみやかに決済する。


「何を当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、
このように、感情に左右されないことが非常に重要です。

銘柄に感情を乗せて投資をしている人が大半ですが、
短期投資の場合、全く興味を持つ必要はありません。


ほんの数日前に終わったトレードの記録を見ても、
「あれ? こんな銘柄で売買したっけ?」
というぐらいに、
会社名も、金額も、利益か損失かも、いつ売ったかさえも、
本当に何もかも覚えていない。

それぐらい、銘柄に対しては興味を持たなくても良いのです。

短期投資は、負けることも前提

株式の長期投資と短期投資においての最も大きな違いは、

・長期投資は、最終的には絶対に勝たなければならない
・短期投資は、負けることも前提


長期投資は何十年のスパンで考えるものなので、
最終的には勝って終わらなければなりません。

例えば20~60歳まで投資し続けた人がいたとして、
40年間の投資の結果が大負けなら目も当てられません。

よって、「必ず利確して終わる」のが第一目標なのです。
もし「いつまで経っても含み益にならない」という場合、
何年か先まで利確を先延ばしにしなければなりません。

つまり、「そのお金がなくても生活に問題ない」というお金で
長期投資をしていく必要があります。


さて、短期投資の場合は、勝ちと負けは混在します。
勝率は良くて60%ぐらいでしょう。

こちらはテクニカル分析を使った、
「○○の形になったときには、△△の動きになる可能性が高い」
という、確率を元にした投資です。

あくまで「可能性が高い」ですので、
100%勝つことはありえません。


例えば、ある実験結果では、
人間は丁字路に追いつめられると、70%ぐらいの人が左に曲がるらしいです。

ということは、仮に、
「この人はどっちに曲がるか?」という賭けがあったとしたら、
毎回左に賭けておけば70%勝つということになります。

ですが実際にやると、
5人連続で右に曲がった、ということもあるかもしれません。

しかし、回数を増やせば増やすほど、
左に曲がる人の割合は70%に近づいていきます。


サイコロに例えると、
振って1が出る確率は1/6ですが、
3回連続で1が出ることもあります。

ただ、振る回数を増やせば増やすほど、
それぞれの目が出る確率は1/6に近づいていきます。
これを大数の法則といいます。


短期投資においては、
100%勝とうとするのではなく、トータルで勝っていれば良いのです。

そのための、
「○○のときは、△△になる可能性が高い」という法則をたくさん学んでいくのが、
株式における短期投資です。

ですので、短期投資はトレードルールさえきちんと構築できれば、
そして、それを徹底的に守ることが出来れば、
やればやるほど利益が積み重なっていくものです。


これらのテクニカル分析における「法則」は、
一度学んでしまえば生涯使うことのできる不変のものです。

ただし、この法則が成り立つのは、「平常時のみ」です。

例えば、左の道路が工事中で細くなっていたら、
左に行く人は少なくなるでしょうし、
また、大勢の人が一気に右に動いたら、
あとに続く人も一斉に右に動きます。

「普段と違う状態になっている」というときには、
短期投資をしてはいけない理由がそれです。


また、このルールを使いこなすには訓練が必要です。

「○○のときは△△に動く可能性が高い」と分かっていても、
欲や恐怖でそのとおりに動けなかったり。

使いこなすためには、メンタルの訓練も必要になります。

失敗やミスを経験させる理由

失敗やミスを経験させるって大事だなあと思う。

例えば、天気予報を見て雨が降りそうなとき、
外出しようとする子どもに、
「雨が降るから傘を持っていきなさい」
と教えることは親切だが、
自分で判断する力を無くしかねない。

あえてそれを告げず、
子どもが外に出て、やがて雨が振りびしょ濡れになって帰って来る。
その時に、「天気予報を見ればよかったのに」と伝える。

そうすると子どもは、
「次は出かける前に天気予報を見よう」となる。
一度では覚えなくても、その失敗を何度か繰り返すと、
いずれ天気予報を見る習慣が身につく。


もし、親が毎回、
「出かけるなら天気予報を見なさい」や、
「雨が降るから傘を持っていきなさい」などと教えていたら、
親が言わない限り、天気予報も見ないし、
傘も持っていかないようになってしまう。

どうしても人間は、ミスをしないと学ばないところがあるのだ。

痛い目を何度か見ることで、
「こうすれば良かった」という悔しさも出て、
「次こそはこの失敗を繰り返さないぞ! そのために○○するぞ!」
という力も湧いてくる。


ミスをしないように忠告するのは大事なのだが、
それが子どもの「生きていく力」を奪いかねない。

もちろん、命の危険になるようなミスや失敗はダメだが、
そうでないものは、あえて失敗やミスを経験させて、少しは痛い目を見させた方が良い。

そのうえで必要ならば、
「天気予報を見れば良かったのに」と、
そのミスの回避策も教えてあげる。


まあ、傘を持っていかないせいでびしょ濡れになった学生服を洗うのは親だったりするのだけれど😅
それは覚悟の上で、あえて教えない😆

「知ったつもり」が一番危ない

「知ったつもり」が一番危ない。


「知る」には3つの段階があると思う。

  1. 知識として知っている状態
  2. 経験として知っている状態
  3. 腑に落ちた状態

チョコレートで例えるとわかりやすい。

  • 「チョコは甘い」と本で読んだのが第1段階
  • 口の中に入れて甘さを体感したのが第2段階
  • 飲み込んで消化して、自分の血肉にしたのが第3段階

多くの人は第1段階で「わかった気」になってしまう。
ここが一番危ないところだ。

人にドヤ顔で語り出すのも、この第1段階のままのことが多い。

心理学では「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれていて、
知識が浅い人ほど「自分はよく理解している」と勘違いしやすい。

逆に、本当に理解が深まってくると、
「まだ自分は何も知らない」と感じるようになる。


つまり――

  • 第1段階で止まっている人ほど自信満々に語り、
  • 第3段階に近づいた人ほど静かになる。

でも、それぞれの段階を進むハードルは高い。
チョコをいつまでも食べない人もいれば、口に入れたまま飲み込まない人もいる。

特に第3段階は特別で、経験したからといって必ず辿り着けるわけじゃない。
むしろ、必死に理解しようとするより、
ふとした瞬間に全てがつながる。

そこまで行くと初めて、
「今までの自分は何もわかっていなかった」と気づく。


古代の寓話『莊子』より

あるとき斉の桓公という王が本を読んでいた。
車輪の職人がそれを見て「何を読んでいるんですか?」と尋ねると、桓公は「古代の聖人の知恵だ」と答えた。

「その聖人はまだ生きておられるのですか?」
「いや、すでに亡くなっておられる」

すると職人は答えた。
「それではあなたが読んでいらっしゃるのは、ただの聖人の残りカスですな」

怒った桓公に、職人はこう続ける。
「私は車輪を作る職人ですが、ちょうど良く作るコツは言葉では伝えられません。
息子に教えようとしても、どうしても伝わらない。やってみて、体で掴むしかありません。
もしその本を書いた聖人がもう死んでいるのなら、文字にできなかったものは全部消えてしまっています。
それならば、今読まれているものは、ただの残りカスではありませんか」


第3段階の理解は、まさにこの「言葉にできない部分」にあたる。
言葉や文字で届くのは第1段階まで。
その先は、自分で体験して、自分の中で腑に落とすしかない。

知識は借り物。
でも――

腑に落ちたとき、初めてそれは自分のものになる。

本音は、キーボードより手書きのほうがバレる

本音は、キーボードより手書きのほうがバレる。


アファメーションを書いたり、自分を深掘りするとき、PCやスマホを使う人は多い。
でも本当に効果を出したいなら、あえて「手書き」にした方がいい。


例えばアファメーションを書くとき、こんなことが起きる。

  • 「本当は望んでいないこと」を書いてしまう
  • 「正直こんなの無理だろ」と思いながら書いてしまう

このとき、キーボードなら何事もなくスラスラ打ててしまう。
でも手書きだと違う。


書いている自分自身が、その言葉を「嘘だ」と感じてしまう。

だから無意識に――

  • ペンが走り、文字が荒くなる
  • スピードが不自然に速くなる

そこに「違和感」として表れる。


つまり手書きは、自分の心にウソをついた瞬間を体感できる。
PCでは自分の心の微妙な揺れが表に出ない。

どんな言葉も同じフォントで整ってしまうから、
嘘でも本音でも見分けがつかない。

でも手書きだと――
文字の綺麗さやスピードにそれが現れる。
「自分は本当にこれを望んでいるのか?」を問い直すきっかけになる。


アファメーションや深掘りの目的は、
「自分の本音と向き合うこと」

その本音をごまかしたままでは、
どれだけポジティブな言葉を並べても意味がない。

人はなぜか、レシピを守らない

人はなぜか、レシピを守らない。


私はレパートリーは少ないけど、たまに料理を作る。
娘は「パパのハンバーグとオムライスは世界一美味しい!」と全力で褒めてくれるので、やりがいがある。

作り方はいつもシンプルだ。
レシピを見て、その通りに忠実に作る。
きっちり計量し、手順を守る。
それだけで大体の料理は美味しくできる。


ところが、多くの人はレシピ通りにやらない。

  • 「この調味料はちょっと多めにしよう」
  • 「ここは自分なりに工夫してみよう」

ついアレンジしてしまい、
結果、味がバラついたり、全然美味しくならなかったりする。


不思議なことに、これは料理だけの話じゃない。
仕事でも人生でも同じだ。

すでに成功している人は惜しげもなくノウハウを教えてくれる。
「こうすればうまくいくよ」と手順まで教えてくれる。

でも、その通りにやる人はほとんどいない。
聞いた人のうち、実際に素直にやるのは1%もいないという。


昔ベストセラーになった『夢をかなえるゾウ』のラストで、主人公にガネーシャが言う。

「今まで言ってきた秘訣はぜんぶ、君が持ってる本に書いてあったこと。
だけど君は全くやらなかったんだよ」

まさにそれだ。


人はなぜか「聞いたこと」「読んだこと」を実際にやらない。
レシピ通りにやれば美味しいのに、なぜか勝手にアレンジして失敗する。
本に書いてある方法をやれば成功の確率が上がるのに、なぜか自己流に走る。


本来は「守破離」と同じだ。

  • 「守」=型を守ること → これだけで十分な成果が出る
  • 「破」=型を破ること
  • 「離」=自分の流儀を作ること

逆に言えば、特別な天才にならなくても、
最初の「守」さえできれば、多くの人よりずっと先に行ける。

「少数派にいる自分は頭がいい」そう思っているとき、大概は間違っている

「少数派にいる自分は頭がいい」
そう思っているとき、大概は間違っている。


自分が少数派にいるとき、
論理的に考えても、科学的に見ても、自分のほうが正しいと確信できるなら、気にする必要はない。

歴史を振り返れば、最初は少数派だった正論はいくらでもある。
地動説もその一つだ。


問題なのは、論理や科学ではなく、感情的な衝動だけで少数派に立っている場合だ。

  • 「なんとなくムカつくから」
  • 「みんながそう言うと反発したくなるから」
  • 「自分の直感に従った」
  • 「ネットのインフルエンサーが言ってたから」

そんな理由で大勢と逆の立場にいるとき、
たいていは自分が間違っている。


感情的な少数派は、孤立感が燃料になる。
その孤立感が反発心を育て、ますます理屈を聞かなくなる。

どんな非論理的・非科学的なものでも、
欲しい情報はネットを探せば必ず見つかる。

やがて、人は「事実を探す」のではなく、
「事実を自分の主張に合わせる」ことを始める。


さらに厄介なのは、ネットの一部インフルエンサーが、
わざと無茶な逆張りをして、
「◯◯さんのおかげで真実に目覚めました!」という
陰謀論者を増やし続けていることだ。


少数派でいる理由が「論理」か「感情」かを見極めない限り、
人は自分を正しいと信じながら、間違いの側に立ち続けてしまう。

直感は、信じてはいけない根拠の一つ

直感は、信じてはいけない根拠の一つ。

私が物事を判断するときに信用する優先順位は、以下の通り。

順位 基準 特徴
1 科学(物理) 再現性があり、絶対的に信頼できる 人工衛星の観測で雨雲が来ている → まもなく雨」
2 論理 事実に基づき、筋道を立てて結論を導く 「西に雨雲+西風 → 雨雲がこちらに来る」
3 統計 大量のデータから確率的に予測 「梅雨は降水確率が高い → 今日も雨の可能性が大きい」
4 実体験 体験に基づく直感。ただし条件次第で外れる 「雨の匂いを感じた → 過去の経験から雨が降るだろう」
5 その他 根拠のないもの。再現性がない 「神様に祈ったから雨が降る」

なぜこの順番にしているのか。

実体験は、一見すると一番確かに思える。
自分の目で見て、耳で聞いて、体で感じたことだからだ。

しかし、実体験はサンプルが少なく、条件が変われば結果も変わる。
さらに、記憶や感情によって都合よく書き換わることもある。

「統計」は、個人の経験よりもはるかに多いデータをもとにしているため精度は高い。
「この条件下ではこうなる可能性が高い」という予測は日常生活でも役に立つ。
ただし、出所や条件を確認せずに信じれば危険だ。

科学や物理は確実に再現性がある。
論理もまた、正しい前提条件さえあれば、感情に左右されずに結論を導ける。

だからこそ、この2つは判断の最上位に置くべきだ。


逆に「その他」、占い、祈り、根拠のない直感、インフルエンサーの言葉などは、
たまたま当たることはあっても再現性がない。
それに依存すると、現実からどんどん乖離していく。

もちろん、人は感情の生き物だから、時には「なんとなくそう思う」だけで動くこともある。
だが、それを判断の土台にしてしまえば、精度は確実に落ちる。


もし、何かを判断するときは、
「これはどれが基準になっているか?」と、
一度立ち止まって考えると、誤った選択をする確率は劇的に減る。